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★ジャズはかつてジャズであった/中野宏昭著●です

現在價格: 800 (稅0)
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落標數量: 1件
賣家情報
賣家名稱 iuy********さん
總合評價 471
正面比率 100%
出品地愛知県
賣家其他的拍賣品

   
詳細資料
個數:1
開始價格: 800 (税 0 )
最高下標者: 6*4*2***
賣家名稱: iuy********
拍賣品ID:u1130924956
下標單位: 10
開始時間:2024-04-19 23:26 香港:(22:26)
結束時間:2024-04-25 23:26 香港:(22:26)
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商品説明

ジャズはかつてジャズであった 中野宏昭/〔著〕
中野宏昭氏は1970年代に活躍されたジャズ評論家です。惜しくもわずか31歳で逝去されました。この本は中野氏の遺稿集。
47年前の本ですので日焼けは目立ちますが読むのに支障はないと思います。

以下はスイングジャーナル誌に載った悠雅彦氏の書評です。

『ジャズはかつてジャズであった/中野宏昭
 〈最初の出会いというものは、ともすれば時の経過とともに美しく飾られがちである〉と、彼はエリック・ドルフイーについて書いた長いエッセイの冒頭に、あたかも彼との出会いを思い出そうとしているぼくに釘をさすかのようにしたためている。
 けれど、彼の無言の眼を無視してぼくらの出会いの情景を美化しようとしたところで、幸いなことに、ぼくらの出会いはドラマティックでもなければ、いま思い出してもさして印象に残るものでもなかった。たしかなことは、彼が不安と諦めにふちどられた、そのせいかどうか病的なほど鋭い眼をもっていることに、逆にこちらが不安なたじろぎを覚えたということぐらいしかない。だが、一方で、それは彼が誠実な男であることを仄めかしていて、ぼくは一種の安堵に似た気持ちを感じていた。不安な表情の裏にある誠実さ――ぼくが彼に惹かれたのもそれであり、短いつきあいではあったが、ぼくにとってそれは紛れもない、ひとつの真実であった。
 この本に一貫して流れているのはその誠実味と鋭い感性、すなわちみずからが誠実である(あるいは誠実であろうとする)ゆえの苦しみであり、ある重々しさをもった率直な吐露であり、それらが交錯するコンテキストやテクスチュアを超えて鋭く目を射てくる、あの研ぎすまされた感性である。
 中野宏昭。三一年という短い生涯。この男が死ぬ間際にいったい何を思ったか、ぼくは知らない。おそらく彼のことだから、妻や母を想い、いたいけな2人の我が子を思い浮かべたことだろう。しかし、その一方で、みずからまっとうすることのできなかったもろもろを想い、どんなに生への執着を絶ちがたかったことか。ドルフィーの〈極限の声〉は、おそらく彼自身の声でもあったろう。ドルフィーについての優れたエッセイの終末で、彼自身が「カラマーソフの兄弟」から引用した独白は、中野君みずからの悲痛な叫びだったに違いない。〈……おれが今どんなに生を望んでいるか、このはげっちょろけな壁に囲まれて、存在と意識をもとめるはげしい渇望が、おれの心のうちに生まれて出たが……おれはすべての苦痛を征服して、ただいかなる瞬間にも、『おれは存在する!』と自分で自分に言いたいんだ。幾千の苦しみの中にも――おれは存在する〉。
 これも“おそらく“だが、こうした形で自分の書いたものが一冊の単行本にまとめられることは、中野君自身の本意ではなかったろうと思う。彼がスイング・ジャーナルの編集部を退いたのが昭和四七年。翌年フリーの執筆家として活動をはじめたが、新進気鋭のジャズ評論家として、本格的な活躍を開始したのはその後のことである。したがって、わずか3年余の執筆活動だったということになる。この本は生前彼とは親しかった鍵谷幸信氏を中心としたスタッフで編纂されたが、彼が本誌その他に発表したエッセイや小論だけでは量的にまとまりえず、やむなくレコードのライナーノーツ(邦文解説)によっで補足せねばならなかったというのもこうした事情による。彼が生きていたら、決して認めるところではないだろう。しかし、この場合まったく致し方ないのであった。むろん、ライナーノーツだから悪いというのではないが、ライナーノーツというものは性格上どうしても、自分が対象物を掘りさげて書いてみたいと思うことよりも、“解説”に重点が移ってしまいがちである。ここに収められた数編のライナーノーツは中でも優れたものばかりだし、それも“解説”的な部分は、編纂責任者の手で慎重にカットされているのだが、それでも彼が病をおして書き綴った数篇の力作、たとえばマイルス・デイビス、ジョン・コルトレーン、 MJQ、エリック・ドルフィーらについての小論やエッセイとは較べものにならないからだ。それだけこれらのエッセイは抜きんでて優れているということの傍証にもなるが、もしこれでポール・ブレイについてのエッセイでもあったらなア、といまさらながら彼の突然の夭折に天の無情な配剤を思わずにいられない。彼がブレイをこよなく愛していたことをぼくは知っていたからだ。マイルスという対象物は彼にとって絶えず聴くたびに新たな賭けとなったようだが、ブレイは彼にとって安定剤であり、詩人としての彼のインスピレーションの源泉でありつづけてきた。せめて彼がブレイのスティープルチェイス盤に書いたノーツを加えて欲しかったと思う。これは短い、一種の走り書きだが、彼の詩人としての感性がキラリと光る一文だった。〈私は当分の間、ポール・ブレイの行き方に注目していこうと思う〉と、彼自身も本書の「エレクトリック・サウンズ」に対する鋭い批判の最後でつぶやいている。
 詩人は常人には及びもつかぬ異常な反応で言葉を選ばなければならない。みずみじしい行間を持たぬばならぬ。彼が力をこめて書いたマイルス論やドルフィー考を引合に出すまでもなく、全体に、鋭い感性に貫かれた彼の筆致にはそれがあった。
 それにぼくが驚いたもうひとつのことは先に挙げた彼の優れた随想や論考が、ジャズを愛するがゆえのジャズ批判のみならず、文明批判としても立派に成立しているということだ。就中、〈絵画や文学の世界では、批評というものが一つの創作活動として生きている。批評する側と批評される側には、どんな分野でも摩擦は生じるものらしいが、それはある意味では批評が自立していることの現れでもあるだろう。なぜなら、ジャズにおける批評とは、レコード演奏の良し悪しに止まるか、マニア間のみで通じあう内輪話のレベルを出ないものであり、摩擦などの生じるわけもない無風状態の小っぽけな真空地帯を形成するものだからだ〉という指摘は、日本ジャズ界の後進性をズバリと捉えていて痛快ですらある。
 この長い引用文はそのうえ、もし時間があったら、彼は機会を見つけて〈お買い物情報的ジャズ評論の風土〉を棄て、やがてジャンルやカテゴリー論に支配されない、独特な筆致をもつすぐれたエッセイストになっていったであろうことを容易に確信させる。彼は多分、いつの頃からか、出しぬけに死の神がみずからの体内へ舞いおりてくることを予期していたのではないかと思う。本誌にしばしば寄稿している安斎雅夫医師もあるとき、子供はつくらぬ方がいいとさとしたそうだ。本書を読むと、彼が死に対してある種の覚悟を決めていたのではないかと思われるニュアンスが、時折こぼれているのにぶつかる。
 それにしても、ナイーブな感覚と強固な意志とが交差して生みだされる彼の鋭い筆鋒、したたかな洞察力――ぼくが絶えず恐れと畏敬を彼に持ちつづけた、何かしら得体の知れぬものがそこにあった。記憶は遠い過去になりつつある。ぼくが何か大きなものを失ったことも確かだ。本書を目にするたびに、ぼくはそれを思い出さなければならないだろう。
 口はばったい言い方で恐縮だが、彼が本当の意味での真価を発揮するのはこれからだったろう。彼が突如として逝ってしまったのは、そんな矢先のことだった。とはいえ、たとえばマイルスを対象にした現代音楽論をあれだけ掘り下げて書いた人はいない。これを読んだとき、ぼくはマイルスについて書くのがいやになってしまった。
 鍵谷さんが涙をこぽしたとき、ぼくらも泣いた。彼はぼくらの親しい仲間だったがそれ以上に素晴らしい競争相手だった。たしかに本書にはいくつかの難点もある。彼が許さないだろうことを、ぼくらは敢えてやったのだ。中野君、許してくれ給え。ぼくらの友情を永遠なものにしてくれ給え。
 装丁も淡白で素晴らしい。前がき(野口久光)も、後がき(鍵谷幸信)も、思わず読むものの胸を打つ』


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